第8回日本難病医療ネットワーク・学会学術集会

なぜ呼び鈴でなくiPadを勧めるのか?

高橋宜盟



 私は自分の声で話をしづらい方へのコミュニケーション支援に関わる中で、「導入しやすいコミュニケーション機器とは?」と聞かれることが多くあります。
 この質問の難しいところは、主語によって、話しの流れが変わることです。使う本人がやりたいことが実現できるものを用意することが正解ですが、実際の現場では、支援者の導入のしやすさは影響が大きいと感じます。
 言ってくれたらしてあげられる。でも、言わないから何をしていいかわからない。
 それなら、五十音表から文字を選べたら何でも言えるかしら。でも訪問時間は限られているので、はい・いいえだけでもとりあえずわかるようにして欲しい。難しかったら、呼び鈴だけでも鳴らせればいいです。こんな風に変わっていってしまいます。そして結局、伝わらないもどかしさは、本人も支援者も解消できないままになってしまいます。
 機械に詳しい人がいると、パソコンがあると便利ですよ。体が動きづらいならスイッチですね。スイッチが使えないなら視線ですね。頑張って練習してください。当たり前のようにこういった会話がされていますが、そこには利用する人の心が見えません。
 多くの人は、家電のリモコン、スマホ、電子マネーを便利に使っていると思います。その仕組みの説明はできなくても、使うことはできます。
 自分で話すことができない、身体が自由に動かせない方は、周りの人に「せめてYes・Noだけでも」とか「ブザーだけでも」とか言って欲しくはないのです。
 いまどきは、ほんのわずかな指の動きを使ってiPadを操作し、遊びに来た友だちのために、部屋の明かりをつけ、エアコンをつけ、BGMにジャズを流し、おしゃべりにあいづちをうち、帰った後にはメッセージを送る、そんな光景は珍しくありません。
 自分はスマホを使って便利な生活をしているのに、担当する方の不便をそのスマホが解消できるかもしれないのに、「機械は苦手です」と言うのは罪なことだと思います。
 その具体的な機材や方法について語ることが、今日のテーマではありません。もっと考えなければならないのはその先のことです。
 仮に簡単に使える機器を手にしたとしても、話したい気持ちにならない、話したい相手がいない、話を聞いてくれる人がいないのでは、機器を導入した意味がありません。
 「文字盤で言葉をとる時間がないので、はい・いいえだけでも教えて」と言われてしまった時、話したい気持ちは失われてしまっているかもしれないことを、私たちは考える必要があります。

 ところで「お茶を飲む?」という質問は、「はい」「いいえ」だけで答えることができるシンプルなものでしょうか?緑茶、ほうじ茶、ウーロン茶、好みはいろいろです。コーヒーなら飲みたいと思っているかもしれません。
 このあいだの静岡のお茶は美味しかった、一緒にいただいたお饅頭はどこのだったかしら?初めて一緒に喫茶店に行った時のこと、思い出すね?お茶を飲む?と聞かれた時の返事は、はい・いいえだけではないのです。

 コミュニケーション支援の現場では、一緒に楽しくおしゃべりしたい、できないと思っていたことができるようになる喜びを共有したい、心からそう思っていると、光が見えてきます。
 いまできることを最大限に生かして、その方の選択肢を、自由度を、できることを増やしていくきっかけを提供することが、コミュニケーション機器の存在価値です。
 ALSになって意思伝達装置を使ってらした方が、スイッチも視線も使えなくなり、奥さまが相談にこられました。iPadで一緒に写真を撮って、タップしたら音声でその写真のことを伝える日記をつけてもらうことにしました。奥さまは、お見舞いのお客さんやヘルパーの人たちとご主人の写真を撮り、毎日iPadで写真日記を作りました。
 こんなこと書いていいかしら、ちょっと聞いて?と、ご主人の側で話しかける日々。前に作った写真日記を一緒に見ながら思い出話をする。そんな使い方を続けてらっしゃいます。

 その奥さまから最近届いたメッセージです。コミニケーションが取れなくなって全てを諦めていた私を救って頂きました。哲也日記は、もう一度哲也さんと向き合うきっかけを私に教えてくれました。
 会話が出来なくもどかしい事もありますが、二人で穏やかに過ごせて居るのは 何かあるとiPadで写真を撮り見せている事だと思っています。哲也日記で私の気持ちに余裕が出来た様な気がします。

 コミュニケーションは、用事を伝えることではなく、心を通わせること。コミュニケーション機器は、機械ではなく、機会。そう考えています。
 ありがとうございました。

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