ICTは機械ではなく機会です。

アクセシビリティとは何でしょうか?
 私たちが考えるアクセシビリティとは、誰もが選択肢の中から自分の意思で選ぶことができるための仕組みや考え方です。そして、選ばないという選択もあります。仕組みや考えを一方的に提供するのではなく、一緒に考えること。これがアクセシビリティの基本と考えています。



 AIを駆使した自動翻訳が人気です。ことばの壁がなくなる日が来ると期待する人も多くいます。言語の翻訳は可能になるでしょうが、そこに添える心は伝わるでしょうか?
 仮にことばの壁がなくなり世界は一家、人類がみな兄弟となった時に、地上から争いはなくなるでしょうか。私は兄弟喧嘩が絶えない家庭をいくつか知っていますし、親の遺産相続でもめる家庭を見たことがあります。
 京都の人が「ぶぶ漬けでもどうどす?」と言ったら自動翻訳機は何と訳すでしょうか。同じ英語に訳すのでも、イギリスとアメリカ、オーストラリアでは言い方が違うでしょう。日本人はおみやげを渡す時に「つまらないものですが」とことばを添えますが、海外では果たしてその心のうちを伝えることができるでしょうか。大切な人に思いを伝える時にAI翻訳は「月がきれいですね」と訳してくれるでしょうか。

 大切な友人が家にきてくれる時、部屋を掃除して花を飾ったり、音楽を選んだり一緒に食べる料理を考えたりします。友人との会話だけではなく、その人のことを思い何かを準備することもコミュニケーションです。
 遠く離れて暮らしていても、同じ時間に同じ音楽を聞き一緒に空を眺める、これもコミュニケーションの一つの方法です。

 病気や障害で自分の声で話しをすることができない方がいます。意思を伝えるための機器は時代とともに進化しています。はい・いいえを伝える、五十音表から文字を選択して用事を伝える、わずかな身体の動きを使ってスイッチを操作する、視線で選択する、脳波を使った製品もでています。
 高性能な意思伝達装置があり、何でもことばにできるようになっても、それを使う人は頭の中に浮かぶことばをすべて伝えるでしょうか?
 伝えられる自由だけに目を向けて、伝えない自由について考慮することを忘れてしまっていないでしょうか。

 技術の進歩が働き方を変え、生活を変えていきます。人と人の付き合い方も変わってきています。しかし、人と人は心を通わすために生きているという本質的なところは変わりません。そのことは見失い易くなっているかもしれません。
 「ICTの利用」は目的ではありません。「コミュニケーションのきっかけである」ということをあらためて認識し、一緒に生きることについて考える時間を共有したいと思います。

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